君の楽譜、僕の音色X
『明日はこの前の喫茶店で待ってるね。』
昨日、突然かかってきた電話。相手は予想もしなかった水穂さんからだった。
時間に間に合うように、喫茶店に入った。空いてる席を見渡すと、一人男性が僕を見て手を振ってきた。
彼は先にテーブルにつき、僕を待っていたのだ。
「ごめんなさい、遅くなって。」
テーブルの上にはホットコーヒーが一つ、白い湯気を出しておいてあった。それほど、来た時間は変わらないということだ。
「いや、いいよ。俺が早く来たんだ。人を待つのは嫌いじゃないしね。」
天使のように笑う。それに、店のBGMが水穂さんに妙にマッチしていて、映画のワンシーンを見ている気がする。
繊細な声に、器用に動く指でコーヒーカップを持ち、口まで運ぶ手つきは見とれてしまうほど。
それから少しの間、他愛のない話をした。例えば、日常生活について。例えば音楽作家について。
ゆっくりだけど、時間は確実に過ぎていった。
「ねぇ託生、いつもの公園で遊ばない?」
「ええ、いいですね!」
‘いつもの公園’というのは水穂さんの在籍している音大の中庭のこと。草花が美しく咲いてて、ベンチもあって、
まるで夢の国にいるみたいな気分になる。何故だかしらないけど、水穂さんは‘公園’と言うんだ。‘遊ぶ’というのは一緒にヴァイオリンを弾くこと。水穂さんのお陰で多少は人前で弾くのには慣れてきてしまった。
歩いて数分の距離にある大学は、静かに僕達を待っていた。
「託生、腕をあげた?」
「いえ、そんな事ないですよ。あまり弾いてなかったから逆に落ちたかも…」
実を言うと、少しだけ水穂さんの事を考えながら弾いていた。彼ならこの描写をどう表現するだろうか…って。
音色は奏でる人によって異なり、表現の仕方も異なってくる。僕はこんな感じにしか表現できないけど、彼ならどうだろうって。
「さっきの曲はもうちょっと迫力があるほうが魅力的だと思うな。託生のは少し上品すぎると思ったね。」
「そうかな?」
「僕なら、こう弾くな。」
ウィンクを僕に投げつけて、自分のヴァイオリンをつかみ取り、構える。大きく弓を引き、嬉しそうに音を奏でる。
こうして僕は、一時的だけれども、ミューズの虜となった…。
やがて陽は落ち、門限が迫ってきている。ヴァイオリンをケースになおし、水穂さんに向かい合う。
「じゃあ僕、帰りますね。今日も楽しかったです。さようなら!」
この時の僕は、本来の目的を忘れていたのだ。水穂さんの言う、大事な話を。
おじぎをして、バス停へ歩き出そうとした。
「…託生…」
夕焼けを背に、僕を呼び止めた。声からでもわかる、真剣な表情で、深刻な眼差し。
いつもの帰り際ではない、とトッサ感じ取った。だって水穂さんはいつもは笑顔で、軽く手を振ってくれてた。
「託生、俺、留学が決まったんだ。」
頭に衝撃を受けた。ヴァイオリンを地面に落とさなかったのは、不幸中の幸いだろうか。
この後、なんて言葉を返せばいい?
「イタリアの音大に…3年は帰らない。」
「…いつ行くの…」
「来年の春。」
笑えたらいいのに、こんな時。「おめでとう」って言えたらいいのに。
水穂さんの次の言葉で僕の心は、揺り動かされる事になった。
「一緒に来てくれないか、託生。」