月なり弓夜の夢の如し 弐
「遅くなちゃった…!」
あずさは担任に呼ばれ、少しだけ雑務を手伝っていた。
明日の授業に使う用紙をコピーし、ホチキスで留めるだけの簡単な作業。それでも量は多くて少し、時間をくった。
今日はクラブの日で、岬と一緒に行く約束をしているので必然的に急ぎ足になる。
今日は戸田先輩、来なくてよかったと正直に思ってしまい、少し気持ちがほころぶ。
このままいけば、気持ち良く一日が過ぎると思い、軽い足取りで岬を待たせてる教室に入った。
「岬ー、お待た…せ…。」
軽い足取りがいっきに重くなり、足が鉛のように動けなくなった。否、動かなくなった。
思考回路が一瞬にして破壊され、言葉を失う。
目に見えているモノを理解したくない、と心が訴えてくる。
「……。」
教室には二つの影。一つは勿論、岬。そしてもう一つは…。
自分より少し大きめの体を抱きしめて、弘は岬をキスをしていた。
「あ、あずさ!これは…!」
岬は慌てて弘を突き放し、唇を拭う。
「ちょうど良かった、あずりん。」
あずりんって誰だよと、あずさは頭の奥で問い掛けたが、それは言葉にできないほど同動揺していた。
「俺、岬くんと付き合うことになったから。」
弘のあずさに対しての笑みは、余裕の現れからか?それとも、宣戦布告の笑みか?
どちらにしろ、今のあずさにとっては良い意味ではない。
それを解って、弘はもう一度岬の胸に抱きつき、顔をすりよせた。
「そ、そうなんだ…。じゃ…っ。」
あずさはきびすを返し、全速力で廊下を走った。
「あずさ!」
岬は追いかけようとしたが、ソレはできなかった。
弘に強く抱きしめられ、動けなかったのだ。この細い体に一体どれだけの力を秘めているのか。
もしかしたら抱きしめている今の力は本の一部分にしか過ぎないかもしれない。
「…いいじゃん、ほっとけば。この方が好都合だし、さ…。
それより、もっと楽しい事、しない?」
岬、俺のこと好きだって、愛してるって言ったくせに…!!
全部ウソだったの?
俺が全然岬への返事を出そうとしないから、もう飽きちゃった…?
じゃあ、あの笑顔や、俺への優しい声、俺を見る目もウソってこと?
…わからないよ、岬!
あずさはどこをどう走ったか、解らないまま自室へ駆け込みカギを閉める。
岬が追ってこないのに安堵し、扉に背をもたれかけたまま地面へ崩れ落ちた。
一瞬にして体中から力が抜けるのがわかった。
いっきに押し寄せてくる疲労感に体の自由がきかなくなりそうだ。
――…岬
溢れ出る涙を、何度も何度も腕でぬぐった。
ぬぐっても涙は溢れ出て、ついにはぬぐうのさえ止めてしまった。
次の日、岬はあずさに話かけようとしたが、目を合わせてくれず、話もしてくれなかった。
取り付く島が無い状態。、孤島のように遠く離れてしまったあずさの心。
あずさの表情は朝から曇っていて、目が少しだけ腫れていた。
「…あずさ、泣いたの?」
「どうして泣く必要があるんだよ。」
強がってはいるけど、それは上辺だけ。いつも元気なあずさがこれだけおとなしいと返って目立つ。
それはクラスの異変として皆感じ取っていた。
あずさは岬と付き合ってるわけではないから、岬が誰と付き合おうがかってだと思って…いた。
しかし実際になるとどうしてこんなに胸が苦しいのか、わからない。
もどかしい気持ちのせいで、一人でイライラしてるのは自分でもわかっている。
岬の事で、こんな思いになるなんて知らなかった。
知らない方がよかった。
「都津川っている?」
クラスの中心的人物が険悪状態で重苦しい雰囲気の中、突如響いた大きな声。
「…俺だけど。」
席から立ち上がり、声をした方を見た。声の主はいかにも軽そうで、恋人関係にはだらしなさそうな男だった。
手には2,3個のアクセサリーが目立っていた。
この学園ではあまりいないタイプの人間だ。
「俺、C組の原野伸一ってゆーの。今が狙い目かな〜っと思って。
つけ込むようで悪いけど、付き合ってくれない?」
そのセリフに岬は容赦なく原野を睨むが、相手は全く気づかない。
クラス全員があずさの返事を待って固唾を飲み込む。
誰もが当然、断るだろうと予想はしていたが、あくまでも予想で終わった。
「別にいいよ、付き合っても。」
嬉しそうには、どう考えても聞こえない返事。
だけど、原野伸一にとってはどうでもいいのだ。ただ、OKがもらえればいいのだ。
「そう言ってくれると思った。じゃあ、放課後早速デートな。」
原野伸一と名乗った男は嬉々とあずさの全身を舐めるように見、教室を後にした。
彼があずさの事実上、初めての恋人となった。
「あずさ!何でOKなんてしたんだよ!!」
岬は憤りを感じずにはいられず、あずさの机をバンッと両手で突き、身を乗り出して叫んだ。
あずさはソレに怯むこともなく、岬を冷たい眼差しで見た。
氷のように冷たく、でも瞳の奥には炎が燃えていた。
「別にいいじゃん。俺たち付き合ってるわけじゃないんだし。」
「……っ。」
それに関して、岬は何も言い返せないまま、授業開始のチャイムが鳴り響いたのだ。
「なんだよ、イインチョー。」
「あずさは、それでいいの?原野君と付き合って…。」
コイツ、イタイトコツクヨナ。
「お節介かもしれないけど、岬ちゃんとちゃんと話し合った方がいいよ!」
「何でそんなに紺野が心配すんの?」
いつもは‘イインチョー’と優しく読んでくれていたあずさ。
なのに、今は本名を出してきた。…そうとうキテるのが目に見えている。
「岬ちゃんも…あずさも、可哀想で見てらんないよ。」
「…!な、バカ!お前が泣く事じゃないだろ!?ホラ、イインチョー涙拭いて。」
涙というものは不思議だなぁと、紺野は思った。
一度流れると止まらなくて、泣き止もうとしても泣きやめない。
あずさは紺野、ことイインチョーの涙を心配そうにハンカチで押さえた。
幼い子供に接するように、優しく頭をなでる。
「イインチョーが泣くことじゃないんだよ…?」
間近で見る、あずさの漆黒な瞳。
その瞳はいつものあずさに戻っていて、哀しそうに紺野の事を見つめていた。